以前、全身麻酔の手術を受けたことがある。その際、意識の無い間の排尿のために、事前にストローのようなものをチンチンに挿し込まれた。人の体の構造上、チンチンにストローのようなものを挿すと、自分の意思に関わらず常にオシッコは垂れ流し状態になる。
その先はおしっこを溜めておくパックにつながっているから清潔だし、看護師さんも身動きのとれない患者の管理がしやすい。自分的にも、手術後すぐに起き上がるのは大変だから、トイレに行かないで済むこのオシッコ回収システムは快適だった。
ただし、医師の説明によれば、術後 目が覚めベッドから起き上がれるようになったら、なるべく早くこのストローを取りたいとのことだった。その理由が面白い。
人の体は楽なことに慣れてしまいやすいため、長い間チンチンにストローを挿しておくと、抜いた後自分の意思でオシッコが出来るように戻るまで時間がかかるとのこと。人によっては、しばらくオムツのお世話になる人もいるらしい。
ところで、用事があって、子供の通う小学校に行った。大きな玄関の誰もが目にする壁に「生きる力」と書かれた大きな紙が貼ってあった。
そういえば、文部科学省が以前、新しい学習指導要領を「生きる力」にしたというニュースを見たのを思い出した。教育を専門とする大人達から見て、今どきの子供は「生きる力」が足りないと見えているのだろう。
学校がこのような目標を掲げたところで、どれだけの効果があるかはわからないけど、確かに僕もそれは強く感じる。
今いるスタジオで20数年定点観測的にその時代の20代の人たちを見てきた。
昔はもっとアグレッシブな人が多かった。今の人なら怖じ気づくようなことも、逃げることなくぶつかっていた。
今の人たちよりも深く考えていなかったと言えばそれまでだけど、人的に大粒な人が多かった。それに比べると、今は賢いけれど小粒な人が増えている。
なぜ、そうなったのか。考えてみれば、いくつか思い当たる節がある。
例えば、技術の日進月歩に伴って、ストレスなく生活できる環境が年々向上してきている。僕の子供の頃と比べても、色々なことがスマートに出来るようになった。
その結果はチンチンに挿すストローと一緒で、生活がノンストレスで楽になった分、子供たちは生活をする上において精神力や気力や体力を昔程出す必要がなくなった。尿道やボウコウの筋肉が鈍るように、生活力も鈍る。
今どきの小学生が何人か集まると、みんなで頭を付き合わせてニンテンドーDS等の通信対戦型ゲームが始まる。1時間でも2時間でも、時間の許す限りず〜っとやっている。その間、ほとんど会話もなく。
僕が子供だったころ、ケンカを含む遊びを通した友だちとの直接的なやりとりの中で、コミュニケーションを覚えていった気がする。不器用から始めなければならなかったコミュニケーションをゲーム機で回避できるようになった現代、コミュニケーションが苦手なまま大人になることは簡単になった。
要するに、生きることが楽になったので、生きる力が減ったのは当たり前の話だ。いつの時代も何かしらの不満や問題はあるだろうけど、日本に限れば確実に昔よりも楽に生きることのできる時代にますます磨きがかかってきている。
この平和な時代がいつまでも続くかわからないけれど、いつか生き抜く力を問われるほどの大きな事が起きた時、生き延びるのは昭和生まれじゃないだろうか。そういう事態になった時、今の人の方があっさり生きることを諦めてしまうんじゃないかって思う。
もちろん、そんな時代が来なければいいだけの話だけど。