先日、50代の僕と40代のフォトグラファー、30代後半のビデオグラファーのオッサン3人で話をしていました。当然、話題は仕事のことになり、とりとめもない話の中で結論に達しました。
「やっぱり、愛だよね~」
「そう、愛だよ、愛。」
「結局は、それだよねー」
もちろん、誰もが日ごろから技術的なことにこだわり、新しい機材の勉強をしたり、試してみたりと、色々なことをやっています。
でも、フォトグラファーから見た誰かの写真、ビデオグラファーから見た何かの映像、僕から見たどこか(誰か)のマネージメント姿勢。そこに愛が感じられないと、がっかりします。すごく、残念だなーと思います。
裏を返せば、それだけ自分は日ごろ愛にこだわって仕事をしているつもりなのです。
で、3人で笑いました。「昼間っからオッサンが集まって“愛”って、気持ち悪いね~」って。
なんか、極論じみた言い方になってしまうのですが、「そこに愛があるか?」って言い方に置き換えてみると、わかりやすくなることって結構あります。
例えば、自分の撮る写真がイマイチ評価されなくて悩んでいる方がいたとします。それは、見る側にその人の愛が伝わっていないからという言い方もできると思います。
それは、そもそもそこには愛が存在しないのか、それとも作者は自分以外愛せない人なのか。愛の方向が見当はずれで誰も共感できないのか、自分の愛に素直になれていないのか。
ビデオグラファーが言っていました。「愛の無い作品は、5秒見ればわかる。」と。また、こうも言っていました。「下手クソでも、そこに愛があれば、まだ見れる。」
今の時代、これだけ多くのメディアがある以上、どうしても稚拙な表現(というより、表現以前の問題)が平然と露出しているのは仕方がないことかもしれません。でも、日ごろからその表現にこだわって生きている者たちからすれば、自分の愛の結晶がその類のモノと一緒にされることには、大人チックな気持ちの対処方法が必要なのです。
何十年も生きてきて、見た目も臭いもオッサンなオッサンが「やっぱり、愛だよ。愛。」って本気で信じているのって、周りはキモいだろうけど、僕は嫌いじゃありません。
だから、キモいのを覚悟の上で、もう少し言わせて頂きます。
その愛が自分勝手なものであるのなら、相手の共感を呼ぶことはありません。生きていくために仕方がなかったとしても、媚びを売らなければ成り立たない愛なんて、長く続けられるものではありません。
より多くの人に愛を与えることができるなら、その作者は称賛されて当然だと思います。仮にわかってくれる人が限られていたとしても、熱烈なファンを獲得することができれば、作り手はその愛に自信を深めることができます。
「写真」とか、「映像」って考えると、何か特殊な世界のような気がします。でも、「愛」って考えれば、もっと身近なものと捉えることができるのではないでしょうか。
もちろん、愛に生きる者なら、相手に伝わる技術を磨くのは当然のことです。
スタッフへ。もっと愛を。